円筒埴輪

歴 史 探 訪

V.古代(その2)

(このページは後援会のメンバーで作成しています)

[4]鵜沼西町古墳

(鵜沼西町)

【鵜沼西町古墳発掘当時の空中写真】[1]

【衣裳塚古墳(鵜沼西町1号墳)】(2022)

【鵜沼西町4号墳】(2022)
(江戸期に「六部塚」へ転用)

【発掘時の閉塞石が積まれた写真】[2]

【発掘時の閉塞石を除去した写真】[2]

 平成12年(2000)、鵜沼西町において1基の古墳が発掘調査されました。発掘調査前の段階では、周辺に円墳の群集墳である 西町古墳群(6〜7世紀)が確認されていたため、これに含まれる円墳の一つであると考えていました。しかし調査を行った結果、 市内では初めての発見*1)となる、古墳時代の終わり頃(7世紀前半)に築造された大型の方墳であることが分かり、 新たに「鵜沼西町古墳」と名付けました。

(以上は資料[2]からの引用です)


 段丘崖の斜面に土盛りで造られた2段築成の方形の墳丘で、下段の一辺の長さは約20m、上段は15mと、かなりの大きさです。 斜面から迫り出した墳丘は、斜面側三方の下段と上段のそれぞれを外護列石*2]と呼ばれる石積みで盛土を支えています。
 横穴式の石室は南北に細長く、その長さは11m以上あり、出入口となる南側を除く三方は大きな鵜沼石*3]で囲われ、 その出入口は閉塞石と呼ばれる扉替わりの石を床から天井まで積み上げて塞いでいたと見られています。
 石室内からは、築造時の土師器はじきや須衛器*4]などの遺物に混じって中世の茶碗や皿なども多数発見されていて、 時代と共に別の目的で利用されてきたと考えられています。それを裏付けるように、西方の周壕辺りから中世の住居跡も 発見されています。外護列石で整地されたこの地を、その後の人々は上手く利用してきたのでしょう。
 元々この古墳の調査は、ここに集合住宅が建設されるということで 急遽発掘されたもので、現在はその集合住宅が建ち並んでいて古墳を見ることはできません。
*1]各務原市の方墳
 小型の方墳(9〜10m)なら蘇原の東山古墳から3基発見されています。
*2]外護列石と葺石
 外護列石と葺石の違いは明確ではないようです。外護列石は斜面の裾野に積まれた石積みという定義もあるようですが、 要は盛土を支える目的の石積みが外護列石で、葺石は盛土の表層の崩れを防ぐ目的なのだろうと思われます。 勿論、葺石は装飾的な意味合いもあり、全面を覆う例もあるようです。  例え急傾斜の石積みでも、盛土ではなく自然の地勢を利用した墳丘なら葺石と呼んでいるようです。
*3]鵜沼石
 鵜沼から採取される、古生代の緑灰色の硬質砂岩の通称
*4]土師器と須衛器
 土師器は、地面に掘った浅い穴で700〜800度位で焼いた野焼き式の土器で、色は茶褐色。一方、須衛器は 5世紀以降に朝鮮半島から伝わったされる窯で焼く手法で、1200〜1300度の高温で焼くので色は青灰色。 また、使われている土にも違いがあって、土師器はリンを多く含む田んぼの粘土で、須衛器は山土という説もあります。


[5]船山古墳(各務原市指定史跡)

(テクノプラザ)

【船山古墳】(2022)

【船山古墳公園(2022)】

【南から1号墳(赤丸)を望む(2022)】

【テクノプラザ本館】(google3Dより)

 7世紀後半の横穴式石室の円墳。
 平成5年(1993)からVRテクノジャパン「テクノプラザ」の造成に伴って15基の船山北古墳群の発掘調査がなされ、 内、1号墳(船山古墳)〜3号墳がVRテクノジャパンの敷地内に復元され古墳公園として整備されています。  このテクノプラザは岐阜県が整備している先進情報産業団地で、県のホームページ[7]では次のように説明されています。

 テクノプラザは、ものづくり企業のほか航空宇宙など成長産業分野への開発支援機関、産業人材育成機関が 集積する次世代型ものづくりの拠点であり、「IT」と「ものづくり」の融合による産業の高度化・情報化、 及び新産業の創出をめざしています。


 この産業団地は三つのエリアに分けられ、誘致されている企業や団体はその業種や分野ごとにエリアが分けられています。
T期(北エリア)
平成10年(1998)完成、誘致開始
科学技術に関する各種研究開発
U期(南エリア)
平成17年(2005)完成、誘致開始
知識産業、次世代産業
V期(東エリア)
平成22年(2010)完成、誘致開始
先端技術、製造業
 最初に完成した北エリアには、岐阜県科学技術振興センターのあるテクノプラザ本館があります。 科学技術支援の拠点であり、科学技術に関する専門書や資料を所蔵する図書資料室や300人収容のホールなども備えています。 また、本館の斜面側の南棟には、第三セクターの(株)VRテクノセンターがあって、VR技術をはじめとする情報関連技術の研究または 開発を行う企業等のためのオフィス・スペース等のテナント事業がなされています。

【科学技術の研究開発拠点として整備された先進情報産業団地】
(図は国土地理院の航空写真、左は米軍撮影、各エリアの赤枠は資料[6]より)



[6]古代寺院・山田寺さんでんじ跡の塔心礎(各務原市指定史跡)

(蘇原寺島町)

【市内の古代寺院の位置図】(国土地理院地図より)
(寺院の名前が不明の場合は、その地名+廃寺)

【山田寺塔心礎/無染寺(2022)】
中央が舎利容器埋納孔
外側が心柱用の凹み(径82〜85cm)

【舎利容器[9]/山田寺塔心礎】
(全高13.4cm、最径10.3cm)

【興福寺の風鐸[10]と出土した風招(右上)[9]

 山田寺は、7世紀の終わり頃、白鳳時代に建てられた古代寺院です。
 幕末の頃に基壇*5)跡から塔心礎が発見され、すぐ近くの無染寺に移されたのだそうです。塔心礎は、仏塔の心柱*6) を支える礎石ですが、この礎石の中に埋納された舎利容器も見つかっており、国の重要文化財に指定されています。
 舎利容器は、本来、仏舎利*7)を納める容器ですが、実際には仏舎利の替わりに宝石・宝玉などが 入っている場合が多いようです。
 仏塔の最上部にある相輪と呼ばれる金属製の尖塔は、釈迦の塚に日除けに立てられた傘が起源とされ、この相輪と仏舎利を 納めた心礎を繋いでいるのが心柱なのです。塔本体はこれを覆う建築物といえます。そうした釈迦の塚である仏塔は、 中心的な存在なのですが、仏像崇拝の広まりからか、必ずしも伽藍中央に建てられるとは限りませんでした。
 平成17年(2005)から5年間、4回の発掘調査が行われました。この調査により仏塔の基壇の位置もほぼ確定され、 回廊や伽藍の規模(69m×77m)も、凡そ推定できたようです。それによれば、仏塔は中門を通る伽藍中心軸の東側で、 西に金堂という法隆寺の逆タイプのようです。因みに奈良の山田寺やまだでら*8)は中心軸上に中門、仏塔、金堂の配置です。
 また、この4次に渡る発掘で多数の遺物が出土しています、その多くが瓦や須衛器などですが、一点、金メッキが施された 風招ふうしょうが見つかっています。風招というのは、風鐸と呼ばれる鐘形の鈴を鳴らすためのもので、風鈴に吊り下げられた短冊の ようなものです。そんな風鐸が堂塔四隅の軒先に吊るされているのを見かけたことがあると思います。
*5) 基壇
 当時の金堂や仏塔などの寺社建造物は、踏み固められた盛土の上に建てられました。この盛土を基壇といいます。 法隆寺の五重塔の基壇の高さは1.5mあります。雨水などの進入を防ぐためとも、威厳を増すためともいわれています。
 その後、強度を増すために一部が石積みだったり、湿気対策を兼ねて表層のみを化粧石積みにしたり、 遂にはすべてが石積みといった基壇などもみられるようになります。
*6) 心柱
 最上部で結合されているだけで、それ以外塔本体との結合はない独立した柱で特に塔を支えているわけではありません。 ただ、塔との振動が異なることから制振効果があると考えられていて、東京スカイツリーでも取り入れられています。
 当初は法隆寺のように、地表より下に礎石が埋められ、その上に心柱が立てられました(掘立式)。 柱の下の方は地面や基壇に埋まった状態です。やがて、礎石をもっと浅く埋め、その表面が基壇上にくるぐらいで 心柱を立てる(礎石式)ようになります。山田寺の礎石は、発見時藪の中の地蔵尊の台石になっていたというから この礎石式だったと思われます。更に中世では、礎石無しで途中の層に立てる桁上式や鎖で繋いで宙吊りの懸垂式の 塔が現れるようになります。
*7) 仏舎利
 仏舎利は釈迦の遺骨のことです。当初は遺骨が8等分され、それぞれ寺院に奉納されたのですが、 200年後、インド統一を果たしたアショカ王は、仏舎利を掘り起こし細かく粉砕して、周辺国も含めて 凡そ8万か所の寺院に再配布したといいます。この頃の日本は弥生時代で、仏教が日本に伝えられたのは そのずっと後の6世紀で、伝来と共に仏舎利が日本にもたらされたかどうかは曖昧のようです。 8世紀に鑑真、9世紀に空海が持ち帰ったといわれています。
 現在、全国の古代寺院で出土確定された舎利容器は、各務原の山田寺を含め8寺院だけです。内、法隆寺の舎利容器は 昭和24年(1949)の解体修理後、埋め戻されてコンクリートで厳重に固められているため、見ることはできないようです[11]
 法隆寺については、大正15年(1926)の調査結果は公表されていないが、舎利容器は金銅製の壷の中に銀の容器があり、 その中に純金の容器があり、さらにその中にガラスの瓶が入っていて、その瓶には瑠璃玉、真珠、水晶などが 納められていたそうです[15]
*8) 山田寺に関わる二人の人物
 奈良の山田寺は、蘇我倉山田石川麻呂の発願により7世紀半ばに建て始められ、7世紀末にはほぼ完成したと されています。石川麻呂は謀反の嫌疑で追い詰められ、649年に山田寺で自害したことになっています。 この時、山田寺は完成してはいないけれど、ある程度寺院としての体裁は整っていたと見られています。 同様のことが、各務原の山田寺でも伝えられています。あくまでも伝承ですが、1.3km北西に墓もあります。
 もう一人は、各務郡出身の高僧、護命(749-834)です。一般的には余り知られていませんが、同時代の空海や最澄から 一目置かれた人物です。
 『続日本後記』で護命について「古京山田寺に隠居する」という記述があります。「古京」を昔の都と解釈すれば 奈良の山田寺に隠棲したとなり、「古京」を故郷と解釈すれば出身地でもある各務郡の山田寺ということになるのです[16]


【参考資料・掲載写真の出典先】

  1. 各務原市埋蔵文化財調査センター『かかみがはらの埋文』第9号2000
    https://www.city.kakamigahara.lg.jp/…/tayori9.pdf

  2. 各務原市埋蔵文化財調査センター『鵜沼西町古墳』2003
    https://www.city.kakamigahara.lg.jp/…/19unumanishimachi.pdf

  3. 各務原市埋蔵文化財調査センター『上田遺跡・鵜沼西町4号墳』2005
    https://www.city.kakamigahara.lg.jp/…/19unumanishimachi.pdf

  4. 岐阜県文化財保護センター『梅替古墳の「葺石」』2014
    https://www.pref.gifu.lg.jp/uploaded/attachment/93257.pdf

  5. 西村勝広『土木史学的に見た古墳築造の合理性と変化』土木学会論文集2018
    https://www.jstage.jst.go.jp/article/jscejhsce/74/1/74_1/_pdf/-char/ja

  6. 各務原市公式ホームページ「景観協定」各エリアの区域図、2022
    https://www.city.kakamigahara.lg.jp/shisei/shisaku/1008207/1008297/1008314.html

  7. 岐阜県公式ホームページ「テクノプラザの概要」2022
    https://www.pref.gifu.lg.jp/page/2683.html

  8. 佐川正敏『日本古代木塔基壇の構築技法と地下式心礎、およびその東アジア的考察』
    東北学院大学論集. 歴史と文化40号、P126-143、2006/3/20
    東北学院大学学術情報リポジトリ

  9. 各務原市埋蔵文化財調査センター『山田寺跡』1993
    https://www.city.kakamigahara.lg.jp/…/06sandenji.pdf

  10. 各務原市埋蔵文化財調査センター『山田寺跡』2010
    https://www.city.kakamigahara.lg.jp/…/30sandenji.pdf

  11. 「日本の塔婆」舎利容器一覧表
    http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/syariyoki..htm

  12. 「Katsuhiro JP Photography Studio」奈良東大寺(2016)
    https://katsuhiro-jp.jimdofree.com/

  13. 各務原市埋蔵文化財調査センター 企画展「古墳時代の各務原」展示解説 2019

  14. 西岡常一『日本人はどのように建造物をつくってきたか1 法隆寺』草思社、1980

  15. 太田信隆『新・法隆寺物語』集英社文庫、1983

  16. 各務原市歴史民俗資料館『資料館だより』Vol33、2015
    https://www.city.kakamigahara.lg.jp/…/26-33.pdf


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